日本歯科新聞 第2060号 2019年 4月2日(火曜日)
デンタル小町が通る @
物心ついた時にはすでにキャ ンパスの前に立たされていた。 そう私の母は画家だった。 鹿児島の開業医の娘に生まれ た母は東京の美大に進みたいと 父親に懇願したらしいが、兄弟の 多い昔のこと、「女のおまえを美大に行かせる余裕なんてない」と言われ、「いつか絶対絵を描けるようになるぞ!」と固く決意したらしい。 時は過ぎ、私の兄が小学校に入ると、PTAで絵画教室が開かれ るというのに飛びつき、着物に割 烹着姿で絵を習い始めた。 すると,ぐんぐんと才能が開き、浦和市展、埼玉県展、二科展などの公募 展に出品するように。 そして、私をモデルにした花と少女シリーズで冒頭のシーンとなるのだ。 北浦和の官舎住まいであった母は台所に50号のキャンパスを置き、私を立たせて真剣に描いている。「もういいでしょー」、遊び に行きたい私はかなり我慢強かったが、最後はいつもそのセリフ。母の「はい、ありがとぅ」の言葉 を聞くのが、どんなにうれしかっ たことか。 私のスカートにはいつも絵の具が付いていたし、オイルの匂いの中で育ったので、ご飯を食べるのに近い感覚で絵を描くように なっていた。 小学校、中学校の写生大会では 必ずクラス代表に選ばれた。 中学 校の同級生が神社の木を下から 見上げるように描いていたのには負けたと思ったが、彼はプロの絵描きとなり、今、中央画壇で活躍している。 そんな私が木格的に絵を始めたのは大学で美術部に入ってから。 他大学の美術部と交流があったり、合宿で北海道に出かけて絵を描いたりと青春を謡歌。 学生時代に大胆にも画廊喫茶で初の個 展を開催した。 その後、歯科医師になり、県展出品を経て、ニ科展にも出品。 吉井淳二、織田広喜、鶴岡義雄など そうそうたる先生方の薫陶を受 けられたのは実に幸運だった。 それもこれも母のおかげだと言える。 小さい時は母にくっついて斎藤三郎のアトリエに自由に出入りさせてもらえたし、東郷青児の姿もはっきり覚えている。 ちなみに雅号は旧姓の泊景子。
デンタル小町が通る A
二科展に初入選したのは、1985年だった。 その後は22回連続で入選。 搬入は毎年8月25日ごろなので、暑い夏に追い込みに入る。 子供が小さい時はおんぶして 描いていた。 トラックを仕立てて荻窪の吉井淳二先生宅に母の絵と併せて6枚を運ぶ。 道路で100号の絵を見ていただくと、先生からひと言、「縦にしてみたら?」。 えっー今から横の絵を縦に?でも必死に縦にしましたよ。
で、見事入選。 その絵は今、福島の病院に飾られている。 2006年に二科展で入選した50号の「光あふるる部屋」が天皇、皇后(現上皇、上皇后)両陛下のお目にとまり、「さわやかですね」とお言葉を賜ったと聞いた時の感動は今でも忘れられない。 1980年に銀座フタバ画廊で初の母娘展を開催。 その後、日比谷、銀座で行い、子供が生まれてからは地元で開催するようになった。 98年には夫と仲の良い従兄弟が銀座で画廊を始めるというのですごく喜び、5年ごとに開催していたが、昨年秋に母が93歳で亡くなりに云年はまさしく個展となってしまった。 それでもたくさ んの方に来ていただき、幸せなひとときを満喫できた。 子供たちの英語の先生から、黒沼さんは、絵を教えないの?」と 言われ、「やりましょうか」と92年 にお絵描き教室を始めた。 当初は、先生のお子さん2入と 私の子供2人でスタートしたが、 月に一度のちょっとしたアドバ イスで子供たちの絵はどんどん良くなり、それが話題となり大人の生徒さんたちも参加してくれ るようになった。 「KEIKO'S CLASS」どと名付けた教室から、2人が女子美術大学、別の一人が尚美学園大学の美術コースへ進んだのはちょっと自慢、いえ、かなり 自慢。 女子美へ進んだ子は専門が立体アートなので絵を描きたいとまた来てくれている。 今は大人10人が在籍。 大学の同級生は千葉の浦安から、同級生のお嬢さまは歯科医師になられたけれど絵を始めたいと言って、わざわざ東京から通ってくれる。 2009年には以前の家を私の設計でアトリエに全面改築し、ありがたいことに心蹴きなく絵を描き、教えられるようになった。
デンタル小町が通る B
今の家に住んで早24年、植える庭木をーつーつ自分で選ぶなど庭師泣かせと言えるほど、庭づくりには最初からこだわっていた。 10年ぐらい過ぎたころ、庭にうっすら苔が生え始めた。 「うまくいけば苔庭になるかも」と張り切 って毎朝の水まき、落ち葉や雑草の掃除を統けていくと、だんだん と苔が落ち着き、厚さを増していく。 苔むした京都の美しい庭園を夢みて苔庭化”に熱が入った。 暑い夏は、朝晩の水やりがかかせないし、日差しを避けるために昼間はよしずをふわっとかけ、それを季節とともにずらしていく。 冬は冬で空っ風も強いので、余計に水まきが必要になる。 水まきのほかに花びらや落ち葉拾いも忙しい。 常緑樹でも結捜洛ち葉はあるものだ。 とにかくずっと庭の掃 除をしている。そんな毎日の苦労のおかげか、今ではしっとりと良い感じ。 わが家に居ながらにして 京都気分を味わえる。 以前、新潟から苔を取り寄せたこともあったが定着しなかった。 やはり地ゴケが一番のようだ。 大好きな庭仕事をしていると、時間を忘れ、つい診療時閥に遅刻しそうになる。 鹿児島にある父の実家の庭には曽祖父が島津候から賜ったと いう岩や築山があり、ケラマツツジが何本も植えられていた。写真 を撮り植木職人の方に相談した ら、全部、移した方が良いと言われ、母は「もういい」と消極的だっ たが、頑張って桶川に運ぶことにした。 向こうで面倒を見てくれてい た従兄から「景子ちゃん、大変。築山から神様が二体も出てきたよ。 」 こっちで神主さん頼んでおはらいしてもらうから、そっちでも必 ずおはらいしてもらうんだよ」と 言われ、ちゃんと祠を作り、ご神体を神主さんにおはらいしても らい、納めた。 子供のころ、祖母が「ここには 神様がおるんよ」と言っていたの を思い出した。「私は聞いていな い」と言った母もすでに亡くなっ ているが、相続の折、その一帯は 「庭内神し」ということで免税に なるといつおまけがついた。 やはりご先祖様を大切にする と良いことがある。
デンタル小町が通る C
父は内科医だった。 大宮の旧国鉄病院に勤務しており、夜遅くに家に帰ってくると大島紬姿でくつろぎ、土日は毎週のように学会へ。 まるで母子家庭のようだっ た。 兄が一人いて、医学部志望だっ たが、私の高校時代はずっと浪人 。 私も医学部を目指したかったが、父は「女が医者になったら幸 せな人生は送れない」という持論を振りかざし、大反対した。 「じゃ 歯医者なら?」と言うと、なぜだか「うむ、よかろう」とあっさり認められ、歯学部へ。 結局、兄も私の後輩として歯科医師になってし まった。 52歳で渋々泊医院を開業した父は跡取りはあきらめた模様だったが、私は父と一緒に仕事をしてみたくて医院に歯科を併設。 昭和57年10月、26歳の時だった。 そのころは結婚よりも仕事、兄も 「桶川は景子に任せた!」と東京に出てしまい、私が実家に残るのは自然な流れだった。 22歳の時に家庭教師のアルバ イトで貯めたお金でヨーロッパ へ行ったのだが、同じツアーに参 加していたのが、当時、医大生だった彼をひと目で気に入った 母の「二人はお似合いじゃない」 という強い押しもあり、28歳の時 に本当に結婚した。 彼は大学に残っていたので15年間は別居生活。 80歳を迎える父 が「もう帰ってきてくれんかのう」と弱気になったのと、「今帰ってこないと子供たち、父親いらなくなっちゃうかもね」という私の 一言で、長男が中学受験を終えた 春に大学をスパッと辞めて帰ってきてくれた。 彼のボスには「恨んでます」と真顔で3回言われたが、実はその後がちょっと大変だった。 父が震える手で診療していたので患者数が激減していたのだ。 来る患者さんは歯科ばかりで本当に申し訳なく思ったが、彼は大らかに 「大丈夫今まで忙しかったから、 その分のんびりさせてもらいよ」 と本を読んだり薪聞を読んだり、 地元の町会長までやってくれた。 新しい内科が軌道にのるまで3年はかかった。朝日内科歯料医院として早いもので21年が過ぎた。 夫と二人三脚の日々の中で、父の勧め通り、歯科医師になって本 当に良かったと今は思う。
デンタル小町が通る D
私の育った昭和30年代のお正月は、今思えば思えば由緒正しい「日本のお正月」だった。 家族全員晴れ着を着て、年始のあいさつをし、父からは厳かにお年玉をもらい、大人はお屠蘇を頂き、もちろん手作りのお節をいただく。 かるたをしたり、父に百人一首を教えてもらったりした後は、近所のお友達と羽根突きや凧揚げ。 女の子は皆、ちゃんと着物を着ていた。 浦和の調神社(つきのみや)にお参りし、鹿児島から祖母が来ている時は明治神宮にもお参りしたが、道行く人々は着物姿の人 が多かった。 いつのころからか、日本人にとって着物を着るのは特別なことになってしまい、七五三や成人式 のみという人も多いと聞く。 着物好きな母の下で育った私は着物が大好きで、一響舘かける時はお 着物でというのがとても増えている。 学生時代に習っていたお茶(江戸千家)のお稽古を重開して10年 ばかりになるが、お茶に行く時は必ず着物を着る。 それが社中にも刺激になったのか、皆さんも最近は着物姿が多くなった。 亡母の残した着物も少しずつ手入れをして、私の寸法に仕立て 直したり、着物にはできないものは帯やバッグ、お草履にしたりと 着物の楽しみ 楽しい040年以上前にに母が作ってくれた私の着物も、派手な八掛(裏地)窒洛ち着いた色に変えたり、帯や帯揚げ、帯締め、帯留め (母や伯母たちが残してくれた昭 和の趣きあるものがまた美しい) など示物を変えるとまだまだ着られる。 洋服はすぐに流行遅れになってしまうが、着物は何十年も着続けられる。 祖母や伯母の80年以上前の着物でも平気で着られる。 なんとエコなのだろう。 着物は着るのが大変そうと思われるだろうが、とにかく着ること、慣れること。 本もあるし、ネットで着付けの手順を繰り返し見 れば覚えられるのではないだろ うか。 実際、長男の嫁はワンコインの 一得け教室に通い、半年でマスターこ今では一緒に楽しんでいる。 たんすの肥やしにせず大和撫子 を一番美しく見せる着物にぜひ 挑戦してほしい。
デンタル小町が通る E
いろいろなボランティアをやってきた。
出だしは子供のPTA活動。
長男の時はあまりお手伝いできなかったが、次男の時は2年間小学校のPTA会長を引き受けた。
幸いにして学校が近かったので、何かあるとすぐに顔を出せた。
また、市内のPTA会長会では、他校の会長とも友人になり、人脈もかなり広がった。
それと重なるように桶川市健康づくり市民会議というボランティア団体の会長になった。
この団体は、桶川市の医師会、薬剤師会、社会福祉協葵本、区長会、PTAなど13団体以上のメンバーで構成され、「ウォーキング部会」、 「防煙・食部会」、「健康づくりサポーター養成講座焚本」の3部会で 桶川市民の健康づくりに貢献している。
ウォーキング部会は、皆で作ったマップを手にゴミを拾いながらのクリーンウォーキングが市民に人気だ。
防煙・食部会は、専門家を招いての小学校でのたばこの害の講演や、簡単お料理教室、男の料理 教室などを企画・開催している。 全6回シリーズのサポーター 養成講座部会は、講座を修了した 市民がサポーターとなり、われわれ
@さし絵を担当した「桶川市健康づくり市民会議 のウォーキンクマッフの西側版。東側版もあるAー キンクを楽しみながらゴミ拾いのボランティアー 「クリーンウォーキンク」B拾い集めたゴミ
の中で、講師を担当してくださる 夫の同級生で落語家の春風一亭柳橋師匠の「笑いから健康に」をテ
ーマにした内容は毎回好評だ。
また、母校の日本大学歯学部の 同窓会理事を10年ほど務め、今は
副会長として同窓のために活動 している。
どの歯科大学も女子学生が増えているので、卒業後はぜひ同窓会活動に参加してほしいと思うが、女性は日々の診療のほ かにも、結婚、出産、子育て、介護
とエンドレスな仕事量。
「これ以 上は無理」という声も正直聞こえ てくる。
さらに女性に限らず、男性も同 窓会離れ、歯科医師会離れが顕著
なご時世。毎日、何かと忙しくて 大変だと思うが、便利なsNsを 活用する中でも、やはり人間、直 接顔を合わせて意見を述べ合い、 前へ進むのが良いのではないか。
いずれにせよ、人のために汗を かく活動が日々の生活を豊かに してくれると信じている。
デンタル小町が通る F
小学生のころに初めて読んで 感動したのは「十五少年漂流記」。
わくわくどきどきしたものだ。
家 には世界文学全集、シートン動物
記、ファーブル昆虫記などがあり、どれも楽しかった。
文章は読 むのも、書くのも好きだったので中学校の国語の先生に「あなた小
説家になれるわ」と言われてちょっぴりその気になりかけた時も。
でも、一局校生になるとあまり読まなくなってしまっていた。
大学時代、親友の下宿に行くと 床が抜け落ちそうなくらいの文庫本の山、同じ作家のものは 全て読まないと気が済まないという。
大いに刺激を受け、私も太宰治や夏目瀬石、森鴎外などを夢中になって読んだ。
以前、家をアトリエ
に改装するのに昔の本を捨ててしまったのを少し後悔している。
数年前に増え過ぎた本を買い
取りに来てもらった時には、「桶川で一番の買い取り数」とお世辞を言われた。
自宅の書棚
最近はゆっくり自分のペースで、就寝前や大学に行く時の移動
時間を読書タイムにしている。
本を携帯し忘れた時は取りに帰るか、途中の書店で何か買わないと落ち着かない。
去年は年に20冊し
か読めなかったので×今年の目標
は50冊。現在、40冊超えなので、なんとかなりそう。毎年、「今年のナンバーワン」の本を決めているがどれも面白く選ぶのが大変である。
▲今年のイチオシは 奥泉光の「雪の階」 ▼あふれる本
今はまっているのは」昌田哲也氏の姫川警部もの。
主人公は、ク ールでタフで時に女らしい。それ
と一局村薫氏や小川洋子氏などの作品。
本の世界に没頭すると、遠い国へ行ったり、江戸時代にタイムスリップできたりする。
脳内活動が活発となり想像力が鍛えられ、妄想もし放題。一人遊びの極みともいえる。
本と言えば長男の高校の卒業式で保護者代表のあいさつを式の数日前に頼まれ、困った末に
「読書の喜びについて話したのも忘れ難い思い出となっている。
「若者よ、本をたくさん読みな さいー本の中には君たちがこれ から知らない世界に出て行く時
に教わることがたくさんあるし、 本に助けられることもいろいろ あるはずだ」
これは、私が大学に 入ったばかりの18歳の時に英語 の教授が熱く語ってくださった 言葉だけれど。
デンタル小町が通る
G
今、思い出した。高校生の時、文通してたなぁ。
予備校で声をかけられた灘高生。2年以上続いていたと思う。彼はもちろん東大へ、その後どうなったのか。
それはさておき、私は手紙を書くのが大好きでヽしょっちゆう書いている。
最近は封筒も便箋も手作りで、診療室のパソコンの横に山になっている。
切手も常に何十枚もある。
封筒はカレンダーや展覧会のチラシ、雑誌の一ページなど。角さえ直角に折れぼ美しい封筒ができる。
便箋は季節の花などを描き、カラーコピー機で縮小する。
今のコピー機は性能が素晴らしいので、納得の仕上がり。
そこに切手を選びヽ宛名は文房具屋さんで探したシールに手書きをする。
自分の住所は銀座で作ったシール。
かなりた<さん作ったのに、また庄文したから、相当書いているのが分かる。
手紙好きのご縁から地元桶川郵便局で一日郵便局長をや っ
て
「手紙を害きましょう!」
という講演を頼まれたのも楽しい思い出。 10年以上前の話になる。
実は診療でも手紙好きは役に立っている (と思う)。
「氷久歯を虫歯にしない会」
なんていうのを勝手に作り、だいたい小学生までの患者さんに2月と8月の年2回、会報を作りヽ手紙を送 っ て
いる。
今年、第38号を発行したので20年近<続いていることになる。
印刷枚数は毎回100枚程度で、内容はは繰り返しになるが、
「なぜ、むし歯はできるのか」
「フツ素の役割」
「舌の位置」
「よくかんで食ペよう」
等々を取り上げている。
A4版に
一 枚、子供たちに向け、分かりやすく書いているつもり。
楽しいイラス卜入りで、以前は 一
枚一枚手書きで色を付けていたが、前回くらいからカラーコピーで楽をしている。
当院では4カ月に 一
度ヽはがきを書いてフッ素塗布を促しているのだが、遠のいてしまっている子供たちもこの手紙を読むと母
親に連れられてまた戻ってきてくれる。
気持ちを込めた手紙を送ることにより、新たな出会いいときっかけをいくつも生み出してきた。
だから私は今日も手紙を書く。
デンタル小町が通る H
土曜日は朝9時から通しで午後2時まで診療時間となっている。
スタッフも交代で各自持参した昼食をアトリエでとる。
私たち も自宅でお昼にするので土曜日はお弁当を作っておき合い間に食ぺられるようにしている。
2年前より長男の嫁が手伝いに来ているので3個、長男も来る時は4個作る。
当日の朝に作るので、4個Eもなると鏡叫時間はかかるが、内容をいろいろ考えるのは楽しい。
息子が嫁に教えてくれというので、先週から一緒に作り始めた。
そもそも私は片付けは不得意だが、料理は好きなので一向に苦にならない。
お正月は嫁に教えながら揮身のお節を作勺し、お絵描き教室ではサマーパーティーとクリスマスパーティーを開き、生徒さんたちと楽しい時間を過ごす。
毎日、朝、昼、晩の三食もささっと作り、おいしくいただく。
今は夫と二人なのでそれほど凝った食事ではないが、先日は二人で松茸祭りを開いた。
「おいしかった なあ」と余裕の料理家気取りだ が、新婚のころはひどかったの、 実は……。
夫は大学に残っていたので別居生活、彼も忙しかったので二週間に一度くらいしか帰ってこられず、私も診療と子育てで絶好調に忙し
く、ついつい、お刺身やお肉を焼くくらいしか用意できなかった。
1せっかく帰ってきたのにこ れっ」と優しい彼もさすがにご立腹。
これではいかんと料理本を読んだ只テレビでお料豊宙組を見たり。
何よ剰激を受けたのは夫の従兄のホームパーティーにお呼ばれした時だった。
パイロットとCAのおしゃれな夫婦とかわ いらしい子供たちが親戚一同を もてなしてくれた。
手作りレシピ集による彼女のおいしい料理の 数々と手際の良さ。
それから私も 舞ロを入れて頑張只お友達を招いて振る舞えるように発ルした。
食べることは本当に大切だと思う。
決してぜいたくをしようとは思わないが、もう人生も残りが早えてきたからには、おいしく体に良いものをほんの少し食べていきたいなと思っている。
デンタル小町が通る 10
私は基本、”和の女”おでかけは着物、家も和風で障子、畳、ふすま太好き、庭ももちろん`畜むす和の庭。
そんな私は趣味でも和を好む。
まず高校では茶道部。
大学に入ってからもてからも近所の先生に習っていた。
数年続けたが`学業が忙しくなりお休み。しかし、たまたま友人が習っていた先生を紹介していたたき、ここ10年ほど通っている。
なんと私が最初に通っていた、江戸千家の師匠の一番弟子で、その偶然の出会いに感動。
今年の初釜には先生のお孫さんたちち加わり華やかな会となった。
そして2年前から始めたのは三味線。
亡母がずつと長唄を習っており、三味線が三丁も残されていてやりたいなぁと思っていたら、なんと患者さんが教えているているという。
歩いていける所なので月3回通っている。
さらに歌舞伎鑑賞。
チケッ卜は高いし、なかなか良い席は取れないが、年に5、6回は行っている
勘三郎が亡くなってしばら<は、歌舞伎座から足が遠のいていたが数年前からまた行きだし、このお正月も新春大歌舞伎と宕手の浅草歌舞伎に夫と出かけてきたかけてきた。
なんと彼も看物で。
夫は今年
三蓮類の着物を着たのだが 、
「えっボクってこれしか持つてないの?キミのと比べるとずいぶん少ないんだね....。」
あと、相撲にも、もっと行きたい。
わが母校`日大出身の運藤関推し
何度かパーティーでお合いしたが`何しろかっこよくて物静か控えめところも最高。
もう一つ
落語があった。笑いが免疫力を高めるということで、
地元の桶川市健康づ<り市民会議主催の腱康セミナーに素人落語家の濱乃志隆氏に来ていただ
いたのがきっかけ。
素人とは思えない完成度の古典落語に一気に江戸時代に引き込まれた。
その後`夫の枝時代の同級生が落語家というご縁で`ここ6年ほどは春風亭柳橋師匠
(今年度 落語芸術協会副会長就任)
に来ていただき、桶川市民に大いに笑ってもらっている。
4月にはア卜リエで念願の「景亭寄席」を開催予定。
今年はオリンピックイヤー日本文化に誇りを持ち。
おもてなし心で世界中の人々に楽しんでいただきたい。
かしこ